



 |
Koji Kajiura
スーパーバイザー
ロジテック鰹務取締役
|
|
|
●野武士みたいな生き方をするのか?
梶浦は27歳の時にエレコムに中途入社した。学校を卒業してからの5年間で大手オフィス機器メーカーをはじめ、会社を4つも変わっていた。どの組織も好きになれなかった。「自分には会社勤めは向いていないかも知れない。」と考え独立した。しかし、失敗した。その上、梶浦は結婚を控えていた。いきなり不安定な生活を始めるわけにはいかない。安定した収入が必要だった。
それで面接を受けたのがエレコムだったのである。面接をしたのは葉田。梶浦は正直に「独立して失敗しました。」と話した。葉田はそれを一蹴した。「そんな野武士のようなアホな生き方をしてどうなる。」まっすぐな言葉、面白いと思った。その直感で梶浦はエレコムへの入社を決めた。
 |
●上が外人モデルが必ず登場したカタログ。下が梶浦第1回制作のカタログ |
|
●カタログのコストを徹底的に削減「コストの鬼」と言われた
入社したのは平成5年の3月1日。ちょうどエレコムの売上高が100億円を超えた日だった。葉田常務(現社長)が小躍りをして喜んでいた。その姿を社内報用のイラストにしたのが、梶浦の初仕事だった。
梶浦は商品カタログの編集・制作を任される。担当したのはVol.8。それまで外人モデルにこだわっていたカタログのデザインを一新。表紙もアーティスティックなデザインを使用。その上表裏の両方から始まるというアイデアも盛り込んだ。「私が創るまでのカタログは不評でした。で、私が創ったものは大不評でした。」と当時を振り返る。
ただし、コストにはこだわった。商品紹介レイアウトのカセット化、必要部数の徹底的な検証などそれまでの制作費の1/3にまで激減させた。「コストの鬼と呼ばれました。」梶浦はそれまでの取引先をすべて変えた。

 |
●今は大きな会社に成長したタイの生産会社。 |
|
●スチールラックの海外生産を任される
平成7年、梶浦は、まったく知識・経験のないスチールラックの生産責任者を突然任された。大震災などの影響によって生産供給がストップしたためである。国内での生産ルートが閉ざされたため、活路を海外に求めた。タイに乗り込み、わずかな商社のルートを辿って現地の生産企業と交渉し、生産方法を指導し、生産にこぎつける。苦肉の策であったが、「圧倒的なコストの安さに驚いた。品質さえ維持できれば、国内市場を圧倒できることに気づいたのです。」
エレコムラックの売れ筋だった「MD-31」の半値以下の「MD-32」が発売され、大ヒットとなった。梶浦は悪戦苦闘の末生まれたこのヒット商品の勢いに乗って、「280商品を1年間で開発して、会社の売上をあげてやる。」と決意した梶浦は、当時設計図面を引いていた高野と一緒に商品開発に没頭する。高野は1年間で3000枚の設計図を書くことになった。
●開発の仕事とは商品を創って会社を儲けさせること
平成10年には、サプライ商品の開発に携わる。開発体制を一変させ、組織とメンバーのミッションを明確化し、数字目標にこだわる意識を徹底させた。自らもビジネスカバンをシリーズ化した「C@M」、薄いCD-ROMケース「CMN」など次々とヒット商品を世に送り出した。
梶浦は新人デザイナーに話しをする。「開発の仕事は、商品を創って会社を儲けさせること」だと。「既成概念を取り払って、より良い開発体制をつくるために妥協はしない」という梶浦は、現在開発全体のマネジメントを取り仕切り、エレコムの新たな挑戦であるAVD・メモリプロジェクトなどの先頭に立っている。
|
|
(C) Copyright 2005 ELECOM CO.,LTD. All rights reserved.
 |
|