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Yukio Shibata
取締役営業部長
●波乱万丈の人生がスタートした。
スチール製パソコンラックの大ヒットを契機にエレコムは全国展開を開始する。1986年5月から国内最大マーケットである東京での販売展開をスタート。その東京市場開拓の責任者として選ばれたのが、柴田である。
柴田は当時、エレコムの競合会社に新卒で入社し、名古屋で営業を担当していた。入社2年目を迎えた柴田は退社することを考えていた。「もっと面白い人生を送りたい。」その柴田に「ウチに来ないか」という声が3名の人物からかかる。一人は当時在籍していた会社の東京支社長、もう一人が本社の常務、そして設立したての会社、エレコムの葉田。
競合会社ゆえに同じ商品を扱っていた柴田は、営業先で葉田とよくバッティングすることがあった。名前は互いに知っており、電話で話したことはあったが、顔を合わせたことはなかった。柴田が退社を希望しているとの情報を知った葉田から連絡が入った。「今から名古屋に行く。」こちらの都合を伝える間もなく、名古屋駅前で待ち合わせた。
初めて顔を合わせて、葉田は開口一番「営業マンはもっとええー靴はかんかぁ。」と大声を出した。「この人についていったら面白い人生を送れるかも・・・。」と柴田は感じた。そしてエレコムへの転職を決意。「まぁ、決断としては間違っていませんでしたね。そこから想像以上に波乱万丈の人生が待ち構えていましたから・・・。」
●地下食堂の片隅に東京営業所はあった。
東京拠点のスタートは親会社の地下の一室、というよりも休憩室の一コーナーを仕切って作られていた。床にはマンホールまでも見えている事務所からの本格始動。エレコムのスタッフとしては柴田ともう一人だけ。当時の東京営業所の売上は月30万円。既存の取引先は小さなショップがほとんど。10月1日に赴任した柴田は「取引先への挨拶回りをしたが、在庫の引き取りばかりで初日は仕事が終わりました。」と笑う。
●当時の東京市場では秋葉原攻略が大きなカギとなった。
●「狭き門より入れ」大手量販店に挑む。
葉田から柴田へ仕事の方針として与えられたのは「狭き門より入れ」ということ。つまり、「まずは、秋葉原を代表する大手量販店6社の取引口座を開け。」それ以外は行くなという指示。さらには「問屋を絶対に通すな。」柴田は大手6社だけを半年間、販促の企画書や提案書を作って各社担当者のもとに通うことになる。
●通い詰めて半年。ついに秋葉原の街に風穴が空く。
なかなか話しも聞いてもらえない状況が続く中、通い詰めて半年で、ついに柴田は取り引きを開くことに成功する。「これだけ一生懸命やってくれたら、柴田さんを信用するよ。」と難攻不落といわれた秋葉原の量販店で一番最初に口座を開いてくれたのはある会社の商品部長。1社に風穴が空くと後は、それが実績となり、次々大手量販店との取引が始まった。川上から川下へ、大手量販店に商品が入り出すと秋葉原中の店舗からの発注も増加した。
●支えたのはプライド。エレコム商品は全国ブランドへと成長を遂げる。
福良の開発したエッグマウスなどの大ヒットによって東京市場拡大にさらに弾みがついた。売上は倍増、3倍増と加速する。1988年12月には東京営業所から東京支店に昇格。神田明神や湯島聖堂などのある千代田区に事務所を移転。当時、東京支店のメンバーは柴田を含めて5名ほどに増えていた。余談だが、柴田のメンバーの営業スタッフと経理事務のスタッフが結婚。エレコム社内結婚第一号となった。
青森・仙台・北関東へも営業エリアを拡大。地方都市で急成長していた量販店との取引もスタート。そうした取引先が現在全国トップレベルの量販店として成長し、エレコムの大きな顧客資産ともなっている。
「私を支えていたのは、プライド。ちょっと大袈裟ですが、ウチの商品をまとも売ろうとしない会社はつぶれる。それ位のプライドを持って仕事をしていましたね。」エレコム商品は日本を代表する電気街「秋葉原」を攻略したことで、一気に、全国ブランドへと成長したのである。
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