丸山千枚田とエレコムグループが向き合う
"日本の未来"
丸山千枚田が「守るべき文化」である理由
「この地でいつ農業が始まり、棚田が作られていったのか。実は、正確なところは分かっていないんです」
そう語るのは、保全・復田活動を担当する熊野市役所地域振興課の谷ノ上雄也さん。
「明確に言えるのは、関ヶ原の戦いの直後、慶長6年(1601年)の検地帳に『すでにこの地には2,240枚の田畑があった』という記録が残っていること。ご覧の通り、ここは農作業がしやすい土地ではありません。にもかかわらず、江戸時代より以前に、大規模な棚田がすでに存在していたんです」(谷ノ上さん)
▲熊野市役所の谷ノ上雄也さん。今回の取材では、丸山千枚田の保全・復田の経緯などを教えていただきました
地域の伝承によれば、丸山千枚田の起源は平安時代末期の大治3年(1128年)頃。。この地の開祖といわれる入鹿頼兼とその家臣によって最初の開墾が行われたとも伝えられています。歴史的事実ははっきりしませんが、記録に残らない遥か昔から、名もなき人々が鍬を振るい、石を運び、何世代にもわたってこの大事業を成し遂げてきたことだけは間違いありません。
その営みは江戸時代以降も絶え間なく続き、明治期に全盛期を迎えた丸山千枚田は、その数2,483枚、総面積は11.3ヘクタールにまで広がりました。動力機械のない時代に、人々が生活のために、文字通り一鍬一鍬、石を一つひとつ積み上げ、そして稲作に勤しんできたのです。
しかし、平地に比べて生産性はどうしても低く、この地域において米作りだけで生計を立てることは容易ではなかったようです。事実、貞享元年(1684年)の古文書には、地域の人々は稲作に加え、杉の伐採といった林業にも従事し、収入を補っていたことが記されています。
▲棚田の中腹に鎮座する巨石には、しめ縄が巻かれている
近代に入ると、丸山千枚田を支えてきた生業の構造は、地域の基幹産業であった銅山での労働との兼業へと形を変えます。当時、棚田での農業は、鉱山での安定した雇用に支えられながら維持されていました。つまり丸山千枚田は、地域に根ざした複合的な産業に支えられて初めて成り立つ、人々の暮らしそのものであり、単なる経済合理性だけで評価できる存在ではないのです。だからこそ守るべき「文化」として大切にされてきたのでしょう。
故郷の風景を、ここで終わらせないために
しかし、地域の産業構造に支えられてきたその繊細なバランスは、戦後に大きく崩れ始めます。特に大きな転機となったのが、昭和の高度経済成長期。農業の近代化が推し進められるなかで、機械化が難しい棚田は「より生産性の悪い圃場」と見なされるようになりました。
さらに、収益性の高い林業への転換が進み、国の減反政策もあるなか、人々は棚田から離れていきました。そして、この地に暮らす人々の生活を支えてきた、地域の基幹産業であった紀州鉱山が昭和53年(1978年)に閉山。兼業という形で棚田を維持してきた若者たちは、仕事を求めて故郷を離れざるを得ませんでした。
担い手の高齢化と、深刻な後継者不足。時代の大きな波は、この山間の棚田を飲み込んでいきました。そして平成4年(1992年)には、棚田の数はわずか530枚にまで激減。耕作を放棄された田は草木に覆われ、先人たちが一つひとつ積み上げた石垣は儚く崩れ、日本の原風景とも呼ばれた景色は、消滅しかねない状況にありました 。
しかし、地域の人々は諦めませんでした。数百年にわたり守られてきた故郷の文化を、伝統を、自分たちの代で終わらせるわけにはいかない――その切実な思いが、住民と行政を一つにしました。平成5年(1993年)、当時の町長と地域住民が座談会を開き、棚田の再生に向けた具体的な道筋を探り始めたのです。
熊野市役所地域振興課主幹の久保雅さんは、当時の緊張感をこう振り返ります。
「ここから10年、20年あの状態を放置してしまったら、もう棚田の復活は難しかったと思います。故郷の誇りだった美しい風景が、このままでは本当に失われてしまう。そんな思いが地域全体にありました。文字通り、ラストチャンスでしたし、それくらいの危機感があったからこそ、地域が一つになれたんだと思います」
▲熊野市役所の久保さん
荒廃していく故郷の風景を見過ごすわけにはいかない。――その一心で、平成5年に丸山地区の全世帯が加盟する「丸山千枚田保存会」が結成されます。時を同じくして、行政も全国初となる「丸山千枚田条例」を制定し、公的資金を投じて復田事業を支えることになりました。住民の熱意というボトムアップの力と、行政の制度的支援というトップダウンの力が、この時固く結びついたのです。
奇跡の復活と、それを支えた新たな仕組み
しかしながら、そこからの道のりは決して平坦なものではありませんでした。現在、丸山千枚田の日々の管理に携わる熊野市ふるさと振興公社の田中肇さんは、復田開始当初の苦労を、先輩たちから聞いた話としてこう語ってくれました。
「かなり大変な作業だったようです。長い間放置された水田には、木が生えている。その枝を払い、木を切り、根っこから取り除いていかないといけません。同時に、風雨で崩れた石垣を人の手で一つひとつ積み直していく。それを急な斜面でやるわけですからね。気の遠くなるような重労働だったんでしょうね」
▲熊野市ふるさと振興公社の田中さん
この困難な復田作業を支えたのが、平成8年(1996年)に始まった「オーナー制度」です。
前出の谷ノ上さんは、この制度が果たしてきた役割をこう語ります。
「都市部の住民や企業の方に田んぼのオーナーになっていただくことで、保全・復田活動の資金が生まれました。当初、オーナーの方々には、米の収穫と農作業体験などを楽しんでいただいていましたが、やがて案山子コンテストや収穫祭といった交流イベントも加わり、単なる農業体験の場だった棚田が、都市と農村をつなぐ大切な交流の場へと育っていったように思います」
地域住民の粘り強い努力と、オーナー制度という新たな支え。その両輪によって、丸山千枚田はついに1,340枚の棚田を取り戻し、かつて人々を魅了した壮麗な光景が再び広がることになりました。2026年に、オーナー制度は開始から30年を迎えました。現在、オーナー数は過去最多の215組を数えるまでになり、SNSなどを通じてその魅力は若者や海外の人々にも広がっています。
絶景の裏にある、担い手たちの切実な思い
530枚から1,340枚への復田。そしてオンシーズンには、毎日のように国内外の観光客が訪れるという事実。再生の物語は輝かしい成功を収めたかのように見えます。しかし、その裏では、深刻な事態が静かに進行していました。
「人手不足です。この棚田を維持できているのは現場で働く人たちがいるから。毎日のように人が手を入れていないと、田んぼはあっという間に駄目になってしまうんです」
厳しい表情でそう語るのは、熊野市ふるさと振興公社で棚田の管理に携わる石本明さん。彼の言葉は、美しい風景の裏にある、もう一つの現実を示します。
「今、常時この広大な棚田の管理に携わっているのは、9人ほどしかいません。しかも平均年齢は70代半ば。一人だけ20代の若者がいますが、その次に若いのは私。60代の私がここでは"若手"なんですよ。ここは、水の管理一つとっても、3系統ある水源から黒いパイプを引いて、一枚一枚の田んぼに水を配って回らなければいけません。しかも水量は一定じゃないから、それを人が調整しないといけない。また獣害被害も年々ひどくなっています。イノシシや鹿、猿がやってきて、収穫直前に、一晩で全滅させられることだってある。その悔しさは言葉になりません」
▲毎日、現場で作業をしている熊野市ふるさと振興公社の石本明さん。作業の現実について語っていただきました
多くのオーナーや観光客を受け入れ、イベントを運営する。そのすべてが、高齢化が進む担い手たちにかかっているのです。
「この素晴らしい取り組みを、どうやって続けていくのか。私らは、ずっとその思いを訴え続けているんです。ここまで皆で守ってきたものを、私らの代で終わらせるわけにはいかない。遠く離れた場所からもこの棚田を愛し、見守ってくれている全国の皆さんの思いに応えられなくなってしまうのも辛い。今こそ、本当に大事な正念場。どうにかして現場で手を動かす人間を確保して、この風景を守っていきたい」(石本さん)
エレコムグループの地域社会との共生と丸山千枚田
こうした切実な思いに、企業としてどう向き合うべきなのか。エレコムグループの支援は、その問いへの一つの答えでもあります。
2015年以降、葉田順治取締役会長の故郷である熊野市との縁をきっかけに、エレコムは丸山千枚田の保全・復田活動に深く関わってきました。当初は一オーナーとして参加していましたが、2020年からは5年間で総額1億5千万円という寄付を通じて、この活動を力強く支援しています。
丸山千枚田を守るうえで欠かせないのは、崩れた石垣や農道の修復、水源の確保といったインフラ整備に加え、この風景を守る「人」の存在です。
前出の石本さんは「日々の生活が成り立つ報酬を出せなければ、若い人は集まりません」と課題の本質を指摘していますが、エレコムグループからの寄付も、こうした最も重要な「人」を支える費用の一部に充てられています。それは、この風景を守り続けるという、日々の営みを地域の皆さんと一緒に支えていくことに他なりません。
さらに近年、課題は増え続けています。異常気象により、集中豪雨や土砂災害のリスクが高まるなか、万が一の事態に備えるための基金の必要性も叫ばれています。エレコムグループの支援は、こうした未来のリスクに備えるための基盤づくりにも活用されていくはずです。
その他にも、例えば「写真を撮って帰る」観光から、いかにして「地域にお金が落ちる仕組み」を作るのか。若者がここで生きていける未来を、どう描き設計するのか。簡単そうでいて難しい――その答えは、まだ見つかっていません。
それでも、希望の光はあります。
「全国から訪れる観光客の皆さんが、私たちに言ってくれるんです。『この景色を残してくれてありがとう』と。その言葉が、何よりの励みになっています」(石本さん)
▲「次の世代にバトンを渡すために、今、頑張るしかありません」と石本さん
丸山千枚田は、ある意味で日本の縮図とも言えます。美しい伝統、受け継がれてきた知恵、そして、それらが失われていく現実。この場所を守ることは、過去から未来へ、何を受け渡すべきかを、社会全体で考える契機となっていくはずです。
エレコムグループのパーパス"Better being"の取り組みは、その問いへの一つの答えであり、同時にチャレンジでもあります。それは、単なる企業による支援にとどまらず、地域の課題を自らの課題として受け止め、共に悩み、共に汗を流すこと。その姿勢こそが、丸山千枚田の保全をはじめとするエレコムグループの取り組みの本質なのです。こうした地道な協働の先にこそ、この「日本の原風景」を100年後の子どもたちへ手渡す、確かな道が続いているのではないでしょうか。

